MOOCsは単に大学の講義をビデオに収録して公開しているものではない。フォーマットとしては数分程度のビデオを組み合わせ、ところどころに理解度を確認するような質問がはさまれている、といったものが典型だ。期末試験などが実施され、修了者に対しては修了証が発行されることもあるが、これを単位として認定する学校も現れている。
壮大な実験
収益をどのように確保するかも含めて、こうしたMOOCsの取り組みはまだ実験段階にあると言ってよいだろう。また、米国ではラジオ、テレビを含めさまざまなメディアや情報技術が教育制度・業界に革命をもたらすという期待を生んできたという指摘もある。通信・遠隔教育が教育に与えた影響は、革命的というほどではなかった、というのがそのような指摘に基づいてしばしばなされる批判である。エリート校によるオンラインの授業提供も2000年代前半にオックスフォード、イェール、スタンフォード大の共同プロジェクトとして試みられたAllLearnがあるが、十分な学生確保の見通しが立たないこと、持続可能な事業モデルが立てられないことなどを理由に撤退している。
インターネットの普及、帯域の拡大、動画の扱いやすさの向上、など2010年代は10年前とは違うと考える理由もある。だが、それらの違いがMOOCsの大きな成功に結びつくかどうかは、わかっていない。
大きく成功した場合の影響については、おそらく教育の受益者の大幅な拡大と、教育業界の価格競争の激化をもたらすだろう。学習者にとっては、大きな利益になる。学費やまとまった時間の確保、キャンパスからの距離などが理由で教育を受けられなかった人々が教育を受けられるようになり、優れた教師の授業をより多くの者が受けられるようになる。これは、日本の国際競争力にも密接に関わるものになろう。グローバル化や技術の発展・普及等に伴ってさまざまな産業の盛衰が生じる現代の経済では、高度知識を身につけることがしばしば競争力の源泉とされるためだ。だが、そうした便益を社会にもたらす一方で、大学の収益基盤である学費に影響し、大学教員の雇用に影響し、いわば教育業界の抜本的な再編をもたらす可能性もあるだろう。
成功が約束されていないこのようなプロジェクトに関与するべきかは、基本的には個々の教育機関が判断するべきことだろう。筆者は日本の高等教育機関のIT関係者などに折に触れて意見を聞いてきたが、MOOCsを実践することは重要だが、諸事情により日本ではなかなか実現しにくいだろう、というのが彼らの多くが持つ見解だった。日本からは京大がedXに、東大がCourseraに,参加を決めているため、実践例は皆無ではないが、政府の規制が理由でより本格的な実験ができないとすると、残念なことである。(実はこの規制の中には、著作権による制約も存在しているのだが、これについては後編で述べることにしたい。)また、ITやネットに関してよくある「プラットフォームは米国発のプレイヤーがおさえ、日本のプレイヤーの活躍の余地は限られる」という構図がここにも成り立つことになるのかも、若干気になるところだ。
先行分野としてのオープン教材
教育のオープン化は、過去10年ほどは教材のオープン化を中心に展開してきた。大学の講座を単位に教材一式(場合によっては講義ビデオも)を提供するオープン・コースウェア(OCW)とか、より細かい単位の教材を、初等・中等教育向けのものも含めて提供するオープン教育資源(Open Educational Resources、OER)という分野で、米国は最も盛んな取り組みが行われてきた。英語圏ではOCWは5000講座を超えるオープン化がされており、OERに範囲を広げれば大手OERカタログサイトの登録点数は3-5万点の規模になっている。日本ではMITのOCWは特に有名だが、それを超えた裾野の広い取り組みになっている。
米国ではまた、教科書の価格が非常に高いことが大きな問題になっているが、自由にコピーできる無料の教科書を政府の助成を受けて作成、採用する例が各所に存在している。ワシントン州、カリフォルニア州、などが先駆例としては有名だが、オバマ政権下では、連邦政府の政策としても政府から特定の支援を受けた教育プログラムに対して、開発された教材をオープン化することが義務付けられている例がある。
これらの教材は単に無料で閲覧できるというだけでなく、通常、一定の範囲内でコピーしたり改変することも許諾されている。誰でも自由に使える資源として提供されている、と言ってもよい。これは学習者の助けにもなる。たとえば日本では仕事のためにウェブページをプリントアウトすることは違法な複製にあたる可能性があり、グレーだが、オープン教材は問題がない。社内ミーティングで配布するような場合も同様である。また、オープン教材をベースに別の大学が教材を開発するような事例も少なからず存在している。さらに、OERからYouTubeのビデオまで様々なオンライン教材を組み合わせて無料の授業を数百講座という規模でオンライン提供しているSaylor財団のような取り組みの基礎にもなっている。
MOOCsほど劇的ではないが、このような教育資源の共有と利用もまた、教育の費用対効果を高め、教育の受益者を拡大する傾向にある。10年間の歴史があることもあり、成果もある程度確認できている。日本の大学も、教材オープン化の領域では世界的に見て比較的高いレベルの活動を実現している。JOCWという団体にはトップ校を含め20程度の大学が加盟し、オープン化された教材も3000に達する。ただし、米国に見られるような組織的利用例やある程度の規模のプロジェクトでの利用には乏しいようだ。
オープン教材はまた、教育の大きな変革ばかりを視野に入れていると見落としがちな便益も、もたらしている。たとえば金銭的な余裕の乏しい学生が、奨学金が振り込まれる前にきちんと教科書を手に取ることができ、自分の習熟度や関心と授業がマッチしているかどうかを確かめることができるようになり、ひいては授業からのドロップアウト率が減るという指摘がある。MITのアンケート調査からは、OCWについて知っている高校生が大学を選ぶ際にOCWを参考にしつつMITに決めている割合が高いとの結果が出ている。また、OCWを実施している大学の学生も、どの授業を履修するかを決める際に参照しているとも言われる。
教育オープン化と著作権
このように大小さまざまな便益をもたらすオープン教材だが、「誰でも自由に使える資源」というのは著作権の大原則に反しているため、実現にはちょっとした工夫が必要になっている。著作権は他人の著作物を無断で使ってはいけない、ということを大原則とする制度だからだ。そこでこの大原則が適用されないようにするために用いられているのが、パブリック・ライセンスと呼ばれるツールだ。著作権を持っている者が「自分の権利については、自分にいちいち許諾をもらわなくても、一定の条件さえ守れば誰でも自由に使ってよい」と広く許諾(ライセンス)を与えるために用いるもので、教材分野でも、ほかのコンテンツ分野でも、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスが広く知られている。
米国の教育のオープン化は、部分的にはオープン教材も活かしつつ、授業自体の無料提供に進展していると見ることができる。ここで、教材のオープン化(パブリック・ライセンスによる提供)と、授業の無料提供のいずれにとっても、教材がネットで公開できることはクリアすべき大前提になる。日本は米国に比べると著作権法の規定が教育のネット利用に対して厳しく、その大前提がクリアしづらい状況にあり、いわばスタート地点に立つのにも苦労がある。これについては後編で詳しくとりあげたい。
Profile
渡辺智暁
国際大学GLOCOM主幹研究員。Ph.D.(インディアナ大学テレコミュニケーションズ学部)。専門は情報通信政策と情報社会論。米国の通信インフラ政策、ICTとメディア・コンテンツ産業の変遷、著作権関連政策などを研究する。東京大学、聖心女子大学非常勤講師。NPO法人コモンスフィア(旧称クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)常務理事。